経歴

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森 貴浩(Takahiro Mori)
リコネクション仙台を経て、森キュアらぼ代表
マルコニクス アドバンストプラクティショナー(アイアムマージが施術できます)
マルコニクス レベルIV認定プラクティショナー 
ディヴァインヒーリング・マスターキーレベルIVプラクティショナー
カーザ公認ガイド(Authorized Guide to John of God)
カーサスーパーバイザー イン ジャパン(Fiscal da CASA do Japão)
1965年生まれ 現在、東京都中野区在住。
早稲田大学第一文学部哲学科卒業
卒業後すぐ東京にて大手ゲーム制作会社勤務
その後、地元福島に戻り、私立短期大学勤務
前職を退職し、現在に至る

ヒーラーを目指すまで
序章 きっかけ-最初の異変

42歳のとき、道を歩いていると不思議な頭痛がすることに気がつきました。一晩寝ると治まるのですが、次日の午後にはまた頭痛が始まります。けっこうひどい頭痛で食事もできなくなることもありました。市販の頭痛薬を飲んで寝ることで一旦は治まるのですがこれは変だと思い、大きな病院で精密検査を受けることを真剣に考えました。しかし、ふとあることに気づきました。手のひらで自分の頭をなでるとザザッという脳が動くような感じがするのです。何度か試してみました。頭の中に箒(ほうき)が入ってきて脳をがさつに触っていくような感じです。手のひらを頭から離してヒラヒラさせても同じことが起きます。自分の手のひらから何かが出ている、という結論にたどり着きました。

ヒーラーを目指すまで
第1章 奇妙なエネルギー

とはいえ、そんなことは人には話せません。もちろん家族にもです。頭がおかしくなったと思われるのがオチで、自分で病院に行かなくても家族にムリヤリ連れて行かれそうな話です。自分でさえ信じられずにいるのですから。しかし、そんな状況とはいえ、気分はとてもよく、自分を取り巻く環境がとても明るくなったように感じていました。そしてその「手から出ている何か」によって頭だけではなく体にも触れることができました。

手のひらからビームが出ているようなイメージです。そのビームは自分の体を通過します。当時私は半年ほど前から前立腺を患っていました。尿がだんだん出なくなって局部のあたりが重くなっていました。場所が場所だけに病院には行けずにいました。なぜそのビームをそこに当ててみようと思ったのかは判りませんが、お風呂に入ったとき湯船のなかでそのビームを当ててみました。そのビームは前立腺に当たるととても強い実体になります。くすぐったいような感覚に近いのですがなにか温かいもので触られている感じです。面白くてなんどもなんども当てていました。

ヒーラーを目指すまで
第2章 前立腺の病が治る

次の日も当てていましたが初日ほどのくすぐったさはありません。3日目はほとんどその感覚はなくなり、他の肉体の部分に当てているのと同じような感覚になってきました。そしてその3日目でいままで絞るように出していた尿が勢いよく出てくることに気づきました。前立腺の病は治っていたのです。「治った」というには病気がそこにあったという診断もなければ、治ったという何の科学的根拠もありませんが「治った」ことは判りました。私自身がその経過を知っているのですから、誰がなんと言おうとそれは「治った」のです。自分が受け取ったもののことはおそらくヒーリングエネルギーではないかと考えました。

ヒーラーを目指すまで
第3章 エノクの鍵

その後、『エノクの鍵』に関するサイト『エノクの鍵3-1-7』を作成しました。
その間になにを考えていたのかはよく覚えていないのですが、なにが現実でなにが現実でないのかがよくわかりませんでした。意味不明の怒りのような感情もたくさん沸いてきていたような気がします。そして自分が「治った」という事実に対してその奇跡には感謝したものの、自分がヒーラーになって他の人をヒーリングするということはイメージできませんでした。なんせそれまでは私はスピリチュアルな事柄というのは一面的な哲学ではあるものの、奇跡的なことをからめて霊的な存在にまで言及する態度は「心と頭の弱い人のたわごと」だと思っていたからです。

ヒーラーを目指すまで
第4章 転機-父の病気/診断ミス

東日本大震災が起こり、福島第一原発が水素爆発をおこした月から5ヶ月後、2011年7月に父は「間質性肺炎」と診断され緊急入院しました。原因については、入院するまでの2ヶ月間、父は前立腺がんの治療のため泌尿器科で出されたホルモン療法の薬を飲んでいたのですが、この薬の副作用がもっとも疑わしいように思われました。

しかし、父が熱があるということで最初に病院を訪れたとき、泌尿器科の担当医は抗生物質を与えただけでホルモン療法の薬を止めるようには言いませんでした。またそのときに聴診器をあてさえすればすぐに気づく肺の捻髪音も見逃していました。つまり、当初からその薬の重大な副作用である間質性肺炎の可能性を失念していたということです。(ねんぱつおん※髪の毛を指先でよじると出るような音。間質性肺炎のわかりやすい特徴の一つ)

ヒーラーを目指すまで
第5章 医療の現場

しかし、泌尿器科の担当医は薬による副作用であることを認めず、入院した内科の医師も原因については断定できない、ということで言葉を濁します。まあ、同じ病院の身内ですので、もし「副作用の可能性が大きい」というような発言をすれば、訴訟問題にもなりかねないので当たり前といえば当たり前のことなのかもしれません。父は同じ病院内に入院しているにも関わらず、その泌尿器科の担当医は一度も病室に顔を出すことはありませんでした。おそらく病院の方針なのだと思います。

父はステロイド剤の大量投与により、一命は取り留めましたが肺が半分ほど回復した時点でそれ以上は良くなりませんでした。そのまま3ヶ月が近づくと病院から退院を迫られました。現在の日本の医療制度では70歳以上の高齢者は一つの病院(急性期病院・一般病棟)ではいくつかの例外を除き、入院は三ヶ月までしかできません。これは高齢者を長期入院をさせ、医療報酬増を見込んでいる医療機関へのペナルティーを意図しています。父の場合は人工呼吸器をつけていましたが、慢性期に入り、投薬以外の特別な治療をしていないという理由でした。

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第6章 腐敗した医療業界

しかし、転院といっても父の体力は極端に落ちており、近場で高度医療を受けられる病院はなく、一応呼吸器科のある病院を探したのですが、転院先で父が受けた治療はひどいものでした。いままでの病院では人工呼吸器からの酸素濃度は血中酸素濃度に応じて調整していたのですが、ここでは常に高い状態で一定にしておくため、転院後すぐに高炭酸血症になり、顔が真っ赤で常時冷や汗が出て頭痛と振戦がありました。私たち家族は酸素濃度を下げるようにお願いしたのですが医療関係者以外の忠告は聞かないと言われました。頭痛がするときは頭痛を抑える注射をするだけです。「振戦があるのは筋力の衰えが原因なので、ケイレン発作を抑える薬を投与する」といいます。血中酸素濃度をモニタリングして欲しいとお願いしたのですが、院長から呼び出され「入院を希望する人はたくさんいる、うちの治療方針に文句があるならいつでも出てってもらっても構わない」という話です。続けて「あなたたち家族は死を受け入れていない」と言われました。その理屈は「死を受け入れていれば、どんな処置をされても文句は出ないだろう」ということです。死を迎えていても出来る限り苦しい思いをしないように、と願うのが家族の思いです。ましてやいずれ死ぬのが解っていてもそのことに言及する院長の倫理観にあきれるばかりでした。そして暗にお金も要求されました。黙って聞いているしかありませんでした。

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第7章 父の死と社会的な機能不全

前の病院では安定していた父はまたたく間に悪くなっていきました。原因不明の帯状疱疹ができ、担当医から話を聞くと積極的治療はしないといっていたにも関わらず、家族になんの相談もなく、ステロイド剤の大量投与を始めていることが判りました。これ以上回復しない慢性期の肺にもう一度大量のステロイド剤を使用するのは保険点数を稼ぐためとしか思えません。こういう医師や病院があることは風聞していましたが、まさかここまでするとは思いませんでした。
父は転院から一ヶ月もせず世を去りました。
もちろんそうした可能な限り患者のケアは手を抜き、薬漬けにして死期を早めつつ、早いサイクルで病床を回していくといった商法をあみだした病院長個人に対する怒りはありました。一番無念だったのはそうした悪しきコンベンションの中に否応もなく巻き込まれていった父だったのだろうと思います。しかし、まもなくこれは「現在の医療システムが抱えている社会的な機能不全である」という認識が芽生えました。もちろん「もっとよいケアを望むのならば金をだせ」といってくるのは個人のエゴですが「そうした言動が可能となる医療制度の隙間」を作っているのはわれわれの所属している社会です。誤診、身内をかばうこと、看護の手間を省くこと、金にまつわるエゴといったありのままの病院の現場と医師のあり方を見せられたことは自分にもやれることがあると確信する強い動機になったように思います。そしてなにより、父の看病をしながら人の気持ちにより添うことの大事さを強く感じました。

ヒーラーを目指すまで
第8章 やってきたクライアント

その後、父の葬儀も終わって一段落過ぎたころ、知人の紹介でひどい鬱で7年ほど家から外に出ていないという人にヒーリングを行うことになりました。その人はとても嫌がっていたのですがご家族が是非にということで行いました。その方はもう一生薬は手放せないと思っていたそうなのですが、ヒーリング後、1週間ほどでなぜかもう薬はいらないと思えたそうです。抗うつ剤と睡眠薬すべてを手放してそれで大丈夫と思えるようになるにはそれから2週間ほど掛かったそうですが、いまでは普通の生活に戻ったそうです。家族の話では性格がとても明るくなったということでした。

ヒーラーを目指すまで
終章 エネルギーが見える-ヒーラーとしての始まり

父の看病をしながら読んでいた本がジョン・オブ・ゴッド(JOHN OF GOD)の本でした。そのときすでに短期大学の仕事は辞めていたのですが、父の葬儀が行われ、相続等の諸手続がすべて終わった2012年4月、ひょんなことから別の仕事の用事でブラジルでいくことになり、たまたまジョン・オブ・ゴッドに会えることになりました。そこでジョン・オブ・ゴッドからスピリチュアルサージャリーを受け、人生がさらに加速することになりました(※ジョン・オブ・ゴッドについてはこちら)。
それから半年後、再度ブラジルに行くことになり、二度目のスピリチュアルサージャリーを受けました。これを受けて日本に帰り、2週間位過ぎたころ、ウチのネコにヒーリングを何気なくやっていたところ、なにやら手から出ている白い煙のようなものが見え、それはわたしの意志に従って、右に流れるようにと思えば右に流れ、上に上昇するようにと思えば上昇するのでした。なんとエネルギーが肉眼で見えるようになったのです!!!「エネルギーは意図に従う」というのはヒーリングの世界ではお経のように唱えられてきたフレーズですがまさにこのとき実感できました。こうしてやっとヒーリングを自分の仕事としてやっていくことを決意したのです。

 
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